Maison de Korisu

夫とふたり暮らし。東京在住、ときどき田舎。家族との日々、料理と思い出。

神様に身体をお返しする日。

たまたま、おすすめに上がってきたある方のyoutubeを観て、その世界観に一気に引きずり込まれ、数日間で一気に動画を見尽くした。

 

イギリス在住の家族の日常・丁寧な暮らし方に、プロミュージシャンのご主人が作曲されたBGMを乗せたその動画は、風景と音楽が相まってひどく懐かしい、古い思い出の映画を観ているような気持ちにさせられた。


その方の息子さん、今よりさらに幼い頃に小児がんを患い治療、片目を義眼に入れ替える手術を受けているそうで。そんな息子さんの誕生日動画までたどり着いたとき、わたしは、わーっと涙が溢れて止まらなくなった。

心にずんと来たのは、「片目を神様にお返しする」という言葉だった。

 

小さな子どもが大病に立ち向かっているとか、共に運命を受けとめる家族とか、それも勿論ではあるのだけど、そうではなくて、ああ、子どもは贈り物だったのだと。わたしは無宗教で、神様の存在を信じてはいないけれど。

 

それでも思ったの。ああ、もし子どもが我が家に来てくれたとしたら、神様からの授かりものだと思おう。神様は架空の存在だとしても、その子がうちに来てくれたのは、生物が生きていくための本能で、遺伝子の関係上だとしても。わたしはどちらかといえば現実主義で、エビデンスが大事だと思うタイプなのに、その瞬間、それらが吹き飛んだのだ。わたしが夫と出会って結婚したのも、本当に偶然でしかない。たまたまここに来てくれたこの子が、生まれてきて良かったと心底思えるように、わたしたちはただ精いっぱいこの子を支えよう。人は必ずいつか永遠の別れを迎える。なるべくなるべく未来でありますように。でもそのときが来てしまったら、そのときはきっと、神様のもとへ帰るときなのだ。そしてそれは、わたしたちも同じなのだ。そう思ったら、涙が止まらなくなった。

 

職業柄、人の死に向き合うことが多かった。昨日まで話していた人が、翌日死を迎えることもあるし、顔色や雰囲気、表情から、日に日に死に向かっているのを感じることもある。若くして病気になる確率は低いけれど、確率が低いというだけの話で、その低い確率は誰にも平等にかけられていることは分かっている。

 

人は幸せ過ぎると、ふとその幸せを失う恐怖に駆られる。
大学生の頃、死が怖いのは幸せである証拠なのかもしれない、と思った。保育園の頃、デパートで貰った風船の紐をなぜか離してみたくなり、そっと手を開いた。ふわっと上がりたつ風船に焦り、急いで手を握りしめると風船は留まった。そのあともう一度、同じことをした。すると今度は紐を掴み損ね、風船は静かに空へ舞い上がり、小さな赤い点になった。

 

産まれることに意味などあるのだろうか。わたしは無いと思う。わたしたちは偶然産まれただけ。いつか必ず死ぬ。それはすべて種の保存に則った、命のプログラム上の出来事なのだ。だからこの偶然与えられたこの時間を、ただただ生きれば良いのだと思う。何か使命を負って産まれたのではない。いま何らかの使命を感じているならば、それは後付けでしかない。特別なことをする必要は無い。

 

でもせっかくだからその時間を、なるべく穏やかに、できるなら幸せに、生きていきたい。少しでも豊かな心で、いろいろなことを心を動かされて生きていきたい。死を迎えた瞬間に、自分ごとすべて消えるのだとしても、覚えている瞬間は、感じている瞬間はなるだけ幸せに。

 

そんな時間を家族で共有したい。いつか産まれてくる子どもとも。いつか神様に身体をお返しするその日まで。